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春の夢

何もかもがめんどくさい。

人間関係。食事。排泄。生きても死んでも地獄。地獄から這い上がれる気がしない。

自分の中の何が他人を遠ざけているのか、わからなくなる。

店の中でタバコが吸える場所はないかと目で探しながら、すでに飲み終わったビールジョッキに口をつけ、最後の一滴を欲している。

「最近映画観てないな」と彼女が言った。

「俺も」

「わからなくなってきた」

「うん」

「生きることの意味が」

「気持ちいいね」

「え」

「スカッとする」

「酒しかないのかな」

「逃げる道」

「酒しか」

「同じことの繰り返し」

「嫌だ」

「マスター、ビールおかわり下さい」

通販で買った紺のトレンチコートのボタンを外し、濡れたTシャツに風を入れる。

「私もビール」

あいつがトイレから戻って来る前に何か言わなければいけない。そんな風に思っているのにうまく言葉が出てこない。

目の前に置かれたビールの泡を見ながら、あいつに殴られてるシーンを思い浮かべた。

「ビール来てるよ」と彼女が言った。

「俺は」

「うん」彼女の頬が少しあからんでいる。「パーマまたあてたんだね」

「そういうの気付くんだ」俺は自分の髪に手をやった。

「気付きたくなかったけど気付いちゃったから言ってみた」と彼女が笑った。「私のこと、本当はどう思ってるの?」

こんな時に思い出すのはいつもとりとめないことばかりだ。

初めて上京した時に見た新宿のビル群のこと、映画館をはしごするために1人で東京中を歩き回ったこと、真夜中に携帯の電源が落ちて自分がどこにいるのかわからなくなったこと、飼っていた鳥が逃げたこと、沖縄にいる妹にドラえもんのグッズを送ったこと、パン屋の店員の女の子がかわいいからとそのパン屋に何度も通ったこと。

「本当に本当のことを言ってもいいの?」

「うん?」

「出よう。ここから」

「え」

「あいつを置いて」

「できない」

彼女が目を見開いた気がした。

ババ抜きでジョーカーを引いたときのような気分だ。誰にもバレないようにすましているあの感じ。このジョーカーを誰かに渡したい。渡したいけれど、ずっと持っていてもいいかもしれない。

「気にしないで」と彼女が言った。

「や、いまの忘れて」と俺は言った。「いや、やっぱ忘れないで」

「どっち?」

「いやさ、映画でも音楽でも漫画でも何でもいいんだけど、すごく良い作品に出会った時には世界中のみんなのことが大好きって気持ちになってね、そんでそんな気持ちでいつも過ごしたいって思うんだ。でもね、毎日毎日働いてくたびれて満員電車に乗ってると誰彼かまわずにらみつけてるわけ。そんなことしたくないんだけど本当は。や、でもそれが本当なのかな、そんな感じ」

胸が苦しかった。俺はビールを一口飲み、席を立つ。トイレから出てきたあいつを抱きしめる。

「なんだよ急に。離せよ、気持ち悪い」

もっと強く抱きしめる。

「いい匂いすんな。お前」

「やめろって」

あいつから腕を離してトイレに向かった。あいつの匂いがまだ残っていた。鏡に映る自分を見る。そのもう一人の自分に何かを話しかければ、応えてくれるのではないかという錯覚があった。

洗面台に視線を落とす。きれいに畳まれた白いハンカチが置いてある。それを見ていたら訳もなく哀しくなった。

俺はさっきまで一緒だった彼女のことを思い出そうとした。彼女の爪は鮮やかな赤色で艶やかだった。