そこにいたはずの人

左右どちらを見ても人はいなかった。ゆらゆら揺れている吊り革と所々色落ちしている座席、窓ガラス越しに見える小さくも大きくもない山。

目的の駅に着くと、大介は「開」と書かれたボタンを押して電車から降りた。思いっきり空気を吸って思いっきり吐いた。手で掴めそうなほど空気が濃い。

改札を抜けると、弟の雄介がジーンズのポケットに手を入れて待っていた。

「元気そうじゃん」

「まあまあ」

「何時からだっけ」

「あと3時間後ぐらい」

大介は雄介が運転する軽トラックの助手席に乗って、実家へと向かった。道中、ついさっき電車の中から見えた山を一瞥した。

 

親父は地元でも有名な猟師で、それを継ぐのは長男である大介のはずだった。しかし、彼は高校を卒業し逃げるようにして東京の大学へと進学し、それからは一度も地元へは帰らず家族とも疎遠になっていった。

親父の訃報を聞いたのは、三日前だった。泣きながらそれを伝えるお袋の声に根負けして葬儀に出席することにした。

 

葬儀も火葬も無事に終わり、かつて使っていた自分の部屋でひとり酒を飲んでいると雄介が入ってきた。

「なあ大介」

「どうした」

「明日、山登らねえか」

「山って」

「親父によく連れてってもらったあの山」

一瞬身震いした。電車から見えたあの山だ。

「どうよ」

「お袋は」

「もう寝た」

「そっか」

雄介は「十時に起こしにくるから」と言って部屋を出た。コップに入った酒を体中に駆け巡らすかのように一気に飲んだ。

 

雄介はしっかり十時に起こしにきて「ほら準備」と言った。シャワーを浴び、雄介が使っていたトレッキングシューズやバッグパック、その他諸々を着て山へと向かった。

 

二人とも喋らずに、ただ黙々と頂上を目指して歩いた。蜘蛛の巣があり、ごつごつとした岩があり、それらを覆う大きな木々や枝が揺れている。雄介は大介の前を颯爽と歩いている。

登り始めて小一時間、大介の息が荒くなってきた。雄介との距離も少しずつ伸びていく。少し休もうと膝に手をついて息を整えた。視界の端に人の気配がしたので林に目を遣ると、猟銃を構えた人間がぼんやりと見えた。「親父」と心の声がもれた。目を閉じて深呼吸をし、もう一度林に目を遣っても人間らしきものは見えなかった。

 

それから三十分ほど歩くと雄介が腰を下ろして待っていてくれた。

「おせえよ」

「きついな」

「あともう少し歩けば頂上」

「ああ」

「頂上まで登るの初めてだよな」

そうだった。子供の頃、親父と三人で登っても必ず大介は途中で下山したいと言い出し、三人で引き返していた。

「頂上で食べるお袋のおにぎりが最高なんだよ」

「親父が」 

「え」

「いや、なんでもない」

「なんだよ」

「いや、いい。よし、あと少し」

 

大介と雄介はまた歩き始めた。

 

大介はあと十メートルほどのところで一旦足を止めて、両の手のひらを見てみた。まるで全身の血がそこに集中しているかのように赤色で染まっていた。