野原
小学5年生の頃、同じクラスに野原慎之介という男の子がいた。彼は誰もが知っているであろう有名なアニメの主人公と読み方が一言一句同じということもあり、周囲の男の子からは、お父さんの名前はひろしなんだろ、お尻出して踊れよ、チョコビ好きなんだろ、などとよくからかわれていた。彼は言い返しもせず、何を言われても動じなかった。
僕が知る限り、野原はその主人公とは対照的に、特に誰とも話さずいつも静かに本か何かを読んでいた。僕は、彼が笑っているところを1度も見たことがない。
野原と違い、僕はいつも先生たちや同級生たちにうまく愛想をふりまいていて、どちらかというとからかわれない側の子供だった。
2、3ヶ月に1度行われる席替えのとき、僕は野原の後ろの席になった。窓側の1番後ろの席で、晴れた日にはクリームパンのような形をした雲がゆっくりと動いているのがよく見えた。
席替えから何日か経ち、僕は本を読んでる野原に1度だけ声をかけたことがあった。
「野原、何読んでるの」
彼はいきなり声を掛けられて驚いたのかぴくっと両肩が上がり、ゆっくり振り返った。
「マンガ」
「ちょっと見せて」
「どうして」
「気になったから」
「僕は、違うよ」
「え」
僕は彼が言った「僕は、違うよ」という言葉の意味を理解できなかった。
「何が違うの」
「マンガは」
「うん」
「生きる力になるんだ」
野原はゆっくり前を向いた。彼の背中がいつもより大きく見え、僕はその背中を凝視した。
野原に対する周囲の男の子からのからかいは日に日にエスカレートしていき、あるときリーダー格の男の子が彼の読んでいたマンガを取り上げ、窓から外に投げた。マンガはベランダをも通り越し勢いよく外に放り出された。
野原は呆れた顔をして声に出せない言葉を発しているように見えた。
次の日から野原は学校に来なくなり、転校してしまった。
それから十数年が経ち、街を歩いているとこんなものを見かけた。
きっとこの会に参加している人たちも野原と同じように、マンガを愛して信じているんだろうと思うと、あの時のあの背中を思い出さずにはいられない。