読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

サンデーモーニング

私が「アイスコーヒーお願いします」と注文したときに、カウンターの向こうに立つ店員が不思議そうな顔を浮かべて言った。

「アイスでよろしいですか?ホットもございますが」

私は彼女の優しさに心から感謝しながら、「そうですよね、こんな真冬にアイスを注文する大バカ野郎はいませんよね」と笑った。

「お客様の自由ですので、大バカ野郎だとは思いませんが、私ならホットを頼みます」と言いながら彼女は自分の頬を撫でた。

私が照れて何気なく後方を見遣ると、長い列ができていて、全員が私をにらんでいた。

彼女は「一瞬ですよ。何もかも一瞬なんです。だから、その」と何かを言いかけて、やめた。

私は恥をかかされた気持ちになり、大声を出した。

「ここにいる奴らは恋を知らないんですよ!誰かを好きになったことがある人間ならね、あんな目で人を見ることなんてできやしませんよ。ところであなた、とても素晴らしいことを言いましたね。一瞬。恋はね、その一瞬が永遠に変わる唯一の魔法ですよ」

「魔法使いになれる瞬間ですね、恋は。私があの人たちを石にしてしまいましょう。そして、ゆっくりホットコーヒーを飲んでください。あれ、アイスコーヒーでしたかしら?」

「いや、何でしだっけ?私が欲しがったのは。わからなくなるんですよ、時々。あなたがさっき言った、というか、あなたのことをさっきあなたって呼びましたっけ?君でしたか?それとも店員さん?お給仕さん?どうでもいいか。どうでもいいわけないか。どうでもいいことなんて。ねえ」

私はそう言いながらジャケットのポケットに手を入れて小銭を取り出そうとしたら、指先に何か別のものが触れた。それは小石だった。先日河川敷に行った際に拾ったものだ。それを握ったり離したりしながら、もう一度後方の長い列を見た。

私はすぐ後ろに立つ男に言った。「この店のBGMはジャズですね。ほら、ドラムがシンバルでリズムをとってるでしょ?スウィングですよ、これが。スウィングジャズ。音楽はね、恋と同じで永遠。だから時間を忘れてお楽しみください」と頭を下げ、ポケットから石を取り出した。「ほら、何か感じるでしょ?」

男は「ただの石じゃないか。早くしてくれ、私には時間がないんだ」と言った。

私は男に「時間が止まる瞬間をしっかり感じてください。このリズムが今なんですよ」と言った。彼女はクスクスと笑った。

私は彼女の笑顔に癒されながら「今日が私の65歳の誕生日なんです。誰も私に微笑みをくれたことなんてなかったんです。迷惑をかけたのはわかってます。でもね、初めて知ったんです。アイスコーヒーを一つ頼むのがこんなに難しいことだったなんて」

「難しい?簡単ですよ」と彼女は言い、ホットコーヒーを差し出す。

ゆうた

コインランドリーのパイプ椅子に座り、目の前のテーブルに置いてあった自由にお使いくださいという紙が貼られた小さなカゴから洗濯ばさみを手に取った。それで左手の人差し指の爪あたりを挟み、周りを見渡した。薄汚れた茶色の棚に巻数がばらばらの漫画。その横には忘れ物用の洗濯物入れ。白を基調とした壁。掛け時計。洗濯機が6台。1台は僕が使用している。

蛍光灯が1つチカチカと切れそうだったのでポケットにあったレシートの裏に、蛍光灯が切れそうです、と書いてテーブルの上に置いた。

しばらくすると腰の曲がったおじいさんが入ってきた。僕が会釈すると彼は「ゆうた、ゆうたか」と聞いてきた。きっと誰かと勘違いしてるんだろうと思い「違いますよ」と答えたが彼はまた「ゆうた、ゆうたか」と言った。

「そうです、ゆうたです」と答えると、「おまえはゆうだじゃないだろ」とあきれられた。

真夜中。大きなビルの中。彼女の手を引っ張って走る。階段を上ったり下がったり。後ろから懐中電灯を持った紺色の制服の警備員。君たちちょっと待ちなさい。走る。息が上がる。彼女の靴が脱げる。拾う。階段の踊り場で息を潜める。くしゃみ。笑う。走る。転ぶ。痛い。痛くない。辛い。辛くない。楽しい。楽しくない。嘘。楽しい。眩しい。うん、眩しい。

晴れのちくもり

見知らぬ街をぶらぶらと彷徨っていたらどこからともなく塩素の匂いがした。これは銭湯が近くにあるのかもしれないと思い、煙突が見えまいかと上を見ながら歩いていると後ろから「あ、危ない」と女性の声がした。立ち止まって振り返ると、灰色のコートを着た女性が口に手をあてて目を丸くしていた。私が「どうかしました」と聞くと彼女は「足下」と言った。そう言われて自らの足下に目を遣ると右の靴の側面から茶色の物体がはみ出していた。

「うわ」

「ごめんなさい」

「どうして謝るんですか」

「もう少し早く声を」

「いや、気づかなかった自分が」

彼女は何も言わずに申し訳なさそうな顔をして鞄からコンビニの袋を取り出し渡してきた。とりあえず受け取り「ありがとうございます」と私は言った。女は頭を下げて小さな声でまた「ごめんなさい」と言った。自分の不注意で糞を踏んだだけなのにこんなにも謝られるといたたまれない気持ちになった。息を止めて靴を脱ぎ、貰ったコンビニの袋に入れた。彼女が立ち去ろうした瞬間私は思わず「あのよかったら一緒に銭湯でも」と言った。自分でもなぜこの言葉が出たのかわからないし、ただ塩素の匂いがしただけでそもそも銭湯がこの近くにあるのかも定かではない。一緒に、とは言ったが別に混浴に入るわけでもない。これはセクハラの類いになるのだろうか。彼女はまた目を丸くした。

「銭湯ですか」

「はい」

「銭湯」

「匂いがしたもので」

見知らぬ土地でよく知らない人と話したりすることがただ嬉しかった。またぷーんと塩素の匂いがした。彼女は「それは嫌です」と言い一礼して去っていった。靴下の上からでもアスファルトの冷たさが伝わってきた。

ライブ

朝、起きても昨夜の酒が抜けていないようで振り子のように頭がぐらぐらした。部屋に転がっている水のペットボトルを手に取り勢いよく飲んだ。生温い。

 

ライブが終わり、私は目を閉じた。

バンド編成で見たい。昨日のネギまの味がぶり返した。ギターポップが多い印象。終電を逃して5時間近く歩いた日の太腿はパンパンで死にたくなった。二日酔いの影響で、お腹を下して何度もトイレに行って出すものを出した。全てのことから逃げたい。もっとこうすればいいのにと思うけど、きっと自分だったら客観的にはみれない。男として見てくれ。ほとんどの人が自分より年下だと思うと少しゾッとした。キスがしたい。沖縄に帰りたい。金がほしい。見捨ててほしい。うなぎが食べたい。好きなバンドを気になっていた女の子にダサいと言われたことを思い出した。

 

私は我に帰り、トイレに駆け込んだ。何時間か前よりも体が重くなった気がしたし、鏡で自分の顔を見ると夕日に照らされたように赤らんでいた。

パーク

しっとりとした空気。少し手がかじかむような寒さ。風が冷たい。

街灯に照らされた電柱よりも大きな凹凸の多い木。

アコースティックギターの音、じゃりじゃりと砂利を踏んで歩く音、カモの鳴き声、若い男性の喋りごえ。

自転車から放たれるLEDのライト、公衆トイレから漏れる暖かい光、自転車を照らす街灯、ギターの音色と混じり合う灯。

ベンチに座る男女。

「肌寒くなってきたね」と男が言った。

「手出して」

「はい」

「カイロ」

「もう冷めてるよ」

「え、まだ温かいよ。」と女はカイロを渡した瞬間、足の先から少しずつ体温が下がっていくのがわかった。

夜がやってくるように紫色に変わった空。

見えない自転車が右に左に走る音。

明日晴れるかな」と女が言った。

「風が強いらしいよ。」男の口の中はコチュジャンの匂いで臭いし、唾が止まらない。

街灯に照らされて、まるで人の波が縦横無尽に動いているような水面。

 

そこにいたはずの人

左右どちらを見ても人はいなかった。ゆらゆら揺れている吊り革と所々色落ちしている座席、窓ガラス越しに見える小さくも大きくもない山。

目的の駅に着くと、大介は「開」と書かれたボタンを押して電車から降りた。思いっきり空気を吸って思いっきり吐いた。手で掴めそうなほど空気が濃い。

改札を抜けると、弟の雄介がジーンズのポケットに手を入れて待っていた。

「元気そうじゃん」

「まあまあ」

「何時からだっけ」

「あと3時間後ぐらい」

大介は雄介が運転する軽トラックの助手席に乗って、実家へと向かった。道中、ついさっき電車の中から見えた山を一瞥した。

 

親父は地元でも有名な猟師で、それを継ぐのは長男である大介のはずだった。しかし、彼は高校を卒業し逃げるようにして東京の大学へと進学し、それからは一度も地元へは帰らず家族とも疎遠になっていった。

親父の訃報を聞いたのは、三日前だった。泣きながらそれを伝えるお袋の声に根負けして葬儀に出席することにした。

 

葬儀も火葬も無事に終わり、かつて使っていた自分の部屋でひとり酒を飲んでいると雄介が入ってきた。

「なあ大介」

「どうした」

「明日、山登らねえか」

「山って」

「親父によく連れてってもらったあの山」

一瞬身震いした。電車から見えたあの山だ。

「どうよ」

「お袋は」

「もう寝た」

「そっか」

雄介は「十時に起こしにくるから」と言って部屋を出た。コップに入った酒を体中に駆け巡らすかのように一気に飲んだ。

 

雄介はしっかり十時に起こしにきて「ほら準備」と言った。シャワーを浴び、雄介が使っていたトレッキングシューズやバッグパック、その他諸々を着て山へと向かった。

 

二人とも喋らずに、ただ黙々と頂上を目指して歩いた。蜘蛛の巣があり、ごつごつとした岩があり、それらを覆う大きな木々や枝が揺れている。雄介は大介の前を颯爽と歩いている。

登り始めて小一時間、大介の息が荒くなってきた。雄介との距離も少しずつ伸びていく。少し休もうと膝に手をついて息を整えた。視界の端に人の気配がしたので林に目を遣ると、猟銃を構えた人間がぼんやりと見えた。「親父」と心の声がもれた。目を閉じて深呼吸をし、もう一度林に目を遣っても人間らしきものは見えなかった。

 

それから三十分ほど歩くと雄介が腰を下ろして待っていてくれた。

「おせえよ」

「きついな」

「あともう少し歩けば頂上」

「ああ」

「頂上まで登るの初めてだよな」

そうだった。子供の頃、親父と三人で登っても必ず大介は途中で下山したいと言い出し、三人で引き返していた。

「頂上で食べるお袋のおにぎりが最高なんだよ」

「親父が」 

「え」

「いや、なんでもない」

「なんだよ」

「いや、いい。よし、あと少し」

 

大介と雄介はまた歩き始めた。

 

大介はあと十メートルほどのところで一旦足を止めて、両の手のひらを見てみた。まるで全身の血がそこに集中しているかのように赤色で染まっていた。