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晴れのちくもり

見知らぬ街をぶらぶらと彷徨っていたらどこからともなく塩素の匂いがした。これは銭湯が近くにあるのかもしれないと思い、煙突が見えまいかと上を見ながら歩いていると後ろから「あ、危ない」と女性の声がした。立ち止まって振り返ると、灰色のコートを着た女性が口に手をあてて目を丸くしていた。私が「どうかしました」と聞くと彼女は「足下」と言った。そう言われて自らの足下に目を遣ると右の靴の側面から茶色の物体がはみ出していた。

「うわ」

「ごめんなさい」

「どうして謝るんですか」

「もう少し早く声を」

「いや、気づかなかった自分が」

彼女は何も言わずに申し訳なさそうな顔をして鞄からコンビニの袋を取り出し渡してきた。とりあえず受け取り「ありがとうございます」と私は言った。女は頭を下げて小さな声でまた「ごめんなさい」と言った。自分の不注意で糞を踏んだだけなのにこんなにも謝られるといたたまれない気持ちになった。息を止めて靴を脱ぎ、貰ったコンビニの袋に入れた。彼女が立ち去ろうした瞬間私は思わず「あのよかったら一緒に銭湯でも」と言った。自分でもなぜこの言葉が出たのかわからないし、ただ塩素の匂いがしただけでそもそも銭湯がこの近くにあるのかも定かではない。一緒に、とは言ったが別に混浴に入るわけでもない。これはセクハラの類いになるのだろうか。彼女はまた目を丸くした。

「銭湯ですか」

「はい」

「銭湯」

「匂いがしたもので」

見知らぬ土地でよく知らない人と話したりすることがただ嬉しかった。またぷーんと塩素の匂いがした。彼女は「それは嫌です」と言い一礼して去っていった。靴下の上からでもアスファルトの冷たさが伝わってきた。

ライブ

朝、起きても昨夜の酒が抜けていないようで振り子のように頭がぐらぐらした。部屋に転がっている水のペットボトルを手に取り勢いよく飲んだ。生温い。

 

ライブが終わり、私は目を閉じた。

バンド編成で見たい。昨日のネギまの味がぶり返した。ギターポップが多い印象。終電を逃して5時間近く歩いた日の太腿はパンパンで死にたくなった。二日酔いの影響で、お腹を下して何度もトイレに行って出すものを出した。全てのことから逃げたい。もっとこうすればいいのにと思うけど、きっと自分だったら客観的にはみれない。男として見てくれ。ほとんどの人が自分より年下だと思うと少しゾッとした。キスがしたい。沖縄に帰りたい。金がほしい。見捨ててほしい。うなぎが食べたい。好きなバンドを気になっていた女の子にダサいと言われたことを思い出した。

 

私は我に帰り、トイレに駆け込んだ。何時間か前よりも体が重くなった気がしたし、鏡で自分の顔を見ると夕日に照らされたように赤らんでいた。

パーク

しっとりとした空気。少し手がかじかむような寒さ。風が冷たい。

街灯に照らされた電柱よりも大きな凹凸の多い木。

アコースティックギターの音、じゃりじゃりと砂利を踏んで歩く音、カモの鳴き声、若い男性の喋りごえ。

自転車から放たれるLEDのライト、公衆トイレから漏れる暖かい光、自転車を照らす街灯、ギターの音色と混じり合う灯。

ベンチに座る男女。

「肌寒くなってきたね」と男が言った。

「手出して」

「はい」

「カイロ」

「もう冷めてるよ」

「え、まだ温かいよ。」と女はカイロを渡した瞬間、足の先から少しずつ体温が下がっていくのがわかった。

夜がやってくるように紫色に変わった空。

見えない自転車が右に左に走る音。

明日晴れるかな」と女が言った。

「風が強いらしいよ。」男の口の中はコチュジャンの匂いで臭いし、唾が止まらない。

街灯に照らされて、まるで人の波が縦横無尽に動いているような水面。

 

そこにいたはずの人

左右どちらを見ても人はいなかった。ゆらゆら揺れている吊り革と所々色落ちしている座席、窓ガラス越しに見える小さくも大きくもない山。

目的の駅に着くと、大介は「開」と書かれたボタンを押して電車から降りた。思いっきり空気を吸って思いっきり吐いた。手で掴めそうなほど空気が濃い。

改札を抜けると、弟の雄介がジーンズのポケットに手を入れて待っていた。

「元気そうじゃん」

「まあまあ」

「何時からだっけ」

「あと3時間後ぐらい」

大介は雄介が運転する軽トラックの助手席に乗って、実家へと向かった。道中、ついさっき電車の中から見えた山を一瞥した。

 

親父は地元でも有名な猟師で、それを継ぐのは長男である大介のはずだった。しかし、彼は高校を卒業し逃げるようにして東京の大学へと進学し、それからは一度も地元へは帰らず家族とも疎遠になっていった。

親父の訃報を聞いたのは、三日前だった。泣きながらそれを伝えるお袋の声に根負けして葬儀に出席することにした。

 

葬儀も火葬も無事に終わり、かつて使っていた自分の部屋でひとり酒を飲んでいると雄介が入ってきた。

「なあ大介」

「どうした」

「明日、山登らねえか」

「山って」

「親父によく連れてってもらったあの山」

一瞬身震いした。電車から見えたあの山だ。

「どうよ」

「お袋は」

「もう寝た」

「そっか」

雄介は「十時に起こしにくるから」と言って部屋を出た。コップに入った酒を体中に駆け巡らすかのように一気に飲んだ。

 

雄介はしっかり十時に起こしにきて「ほら準備」と言った。シャワーを浴び、雄介が使っていたトレッキングシューズやバッグパック、その他諸々を着て山へと向かった。

 

二人とも喋らずに、ただ黙々と頂上を目指して歩いた。蜘蛛の巣があり、ごつごつとした岩があり、それらを覆う大きな木々や枝が揺れている。雄介は大介の前を颯爽と歩いている。

登り始めて小一時間、大介の息が荒くなってきた。雄介との距離も少しずつ伸びていく。少し休もうと膝に手をついて息を整えた。視界の端に人の気配がしたので林に目を遣ると、猟銃を構えた人間がぼんやりと見えた。「親父」と心の声がもれた。目を閉じて深呼吸をし、もう一度林に目を遣っても人間らしきものは見えなかった。

 

それから三十分ほど歩くと雄介が腰を下ろして待っていてくれた。

「おせえよ」

「きついな」

「あともう少し歩けば頂上」

「ああ」

「頂上まで登るの初めてだよな」

そうだった。子供の頃、親父と三人で登っても必ず大介は途中で下山したいと言い出し、三人で引き返していた。

「頂上で食べるお袋のおにぎりが最高なんだよ」

「親父が」 

「え」

「いや、なんでもない」

「なんだよ」

「いや、いい。よし、あと少し」

 

大介と雄介はまた歩き始めた。

 

大介はあと十メートルほどのところで一旦足を止めて、両の手のひらを見てみた。まるで全身の血がそこに集中しているかのように赤色で染まっていた。

野原

小学5年生の頃、同じクラスに野原慎之介という男の子がいた。彼は誰もが知っているであろう有名なアニメの主人公と読み方が一言一句同じということもあり、周囲の男の子からは、お父さんの名前はひろしなんだろ、お尻出して踊れよ、チョコビ好きなんだろ、などとよくからかわれていた。彼は言い返しもせず、何を言われても動じなかった。

僕が知る限り、野原はその主人公とは対照的に、特に誰とも話さずいつも静かに本か何かを読んでいた。僕は、彼が笑っているところを1度も見たことがない。

野原と違い、僕はいつも先生たちや同級生たちにうまく愛想をふりまいていて、どちらかというとからかわれない側の子供だった。

 

2、3ヶ月に1度行われる席替えのとき、僕は野原の後ろの席になった。窓側の1番後ろの席で、晴れた日にはクリームパンのような形をした雲がゆっくりと動いているのがよく見えた。

 

席替えから何日か経ち、僕は本を読んでる野原に1度だけ声をかけたことがあった。

「野原、何読んでるの」

彼はいきなり声を掛けられて驚いたのかぴくっと両肩が上がり、ゆっくり振り返った。

「マンガ」

「ちょっと見せて」

「どうして」

「気になったから」

「僕は、違うよ」

「え」

僕は彼が言った「僕は、違うよ」という言葉の意味を理解できなかった。

「何が違うの」

「マンガは」

「うん」

「生きる力になるんだ」

野原はゆっくり前を向いた。彼の背中がいつもより大きく見え、僕はその背中を凝視した。

 

 野原に対する周囲の男の子からのからかいは日に日にエスカレートしていき、あるときリーダー格の男の子が彼の読んでいたマンガを取り上げ、窓から外に投げた。マンガはベランダをも通り越し勢いよく外に放り出された。

野原は呆れた顔をして声に出せない言葉を発しているように見えた。

 

次の日から野原は学校に来なくなり、転校してしまった。

 

それから十数年が経ち、街を歩いているとこんなものを見かけた。

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きっとこの会に参加している人たちも野原と同じように、マンガを愛して信じているんだろうと思うと、あの時のあの背中を思い出さずにはいられない。

 

音楽

「お前は音楽に頼りすぎ」

最近言われてハッとした言葉だ。

昔からそうだった。好きというより精神安定剤などの薬を摂取するような感覚で音楽を聴いてきた。

サッカー一筋で生きていた小中学生の頃、試合の前には必ずMr.BigのTo Be With Youを聴いて気持ちを落ち着かせていた。高校生になってからは授業中以外はほとんどイヤホンをつけて、weezerやらoasisを聴いて周りとの関係を遮断していた。今でもそうだ、外に出てはイヤホンが手放せず、家に帰ってはすぐにパソコンから音楽を流し、悲しいときも嬉しいときもいつだって音楽を頼りに生きてきた。そういう風に精神を保ってきた。

昨夜、イヤホンをつけずに近所を散歩してみた。犬の鳴き声、電車の音、どこからともなく聞こえる笑い声、風の音、風でなびく葉音、自分の足音、アスファルトの匂い、どれもが新鮮で五感に響いた。こんなに変わるものなのかと心身ともに震えた。身体が喜んでいるような気がした。

これからは音楽だけに頼って精神を保とうとするのはやめにしよう。人を、言葉を、自然を、あらゆるものを深く信じて生きてみようと思う。

中国の歌

その日は足繁く通っているバーがどこも閉まっていて、半ばやけくそになりながらネオン街をふらつき、とにかく酒が飲みたかったので適当にお店を決めて入ってみた。

客は僕しかいなかった。カウンターに座ると目の前にサーバーが見え、喉がごくりとなり「生ビール」と勢いよく言うと、店主は「ごめんなさい。うち数日前にオープンしたばかりでまだ瓶ビールしかないんですけどいいですか」と言った。

「もちろんです」

「ほんとすいません」

瓶ビールを小さなコップに注いでると、奥から女性が3人出てきて「いらっしゃいませー」と言いながら、それぞれカウンターの空いている席に-そこがまるで決められた位置のように-座った。その女の子たちに目をやると三人とも何も言わずニコっと笑うだけで不気味に思えた。店主はニコっと笑って「すいませんねぇ。この娘たち中国の娘たちなんですよ」と言った。笑いながら謝る人は信用出来ない、という何か本の一文を思い出した。

「中国ですか。日本語はわかるんですか」

「いや全く」

「どうしてこの店やろうと思ったんですか」

店主は「人生いろいろだよ」と言い、空いたコップに瓶ビールを注いでくれた。

僕は次にハイボールを頼んだ。ハイボールを待っていると、急にカラオケが流れ、女の子が中国語で歌い始めた。曲調がゆっくりとしたバラードだった。何を言ってるのかはわからないがとても気持ちよかった。歌い終わると思わず拍手をしてしまった。歌い終わった彼女は「シェイシェイ」と言った。酔いも少し回ってきたので唐突に自分が知っている中国語を発してみた。

「ファンインクァンリン」

日本語でいらっしゃいませという意味だ。彼女たちは声を揃えて「おー」と言って喜んでくれた。舞台で脚光を浴びるマジシャンのような気持ちになった。

日付が変わり、閉店の時間も少し過ぎていたのでお会計をした。千円とちょっとだったので驚いた。もっと払ってもいいぐらい居心地の良い空間だった。

帰り際、彼女たちはカタコトの日本語で「マタネー」と言い、手を振ってくれた。僕はニコっと笑ってみせた。こんなに気持ちのいい夜は滅多にない。